カントリージェントルマン白州次郎のスタイル
白州次郎さんって最高にクールな日本人ですよね。
経歴から容姿、ファッション、趣味、思想全てがクールですよ。
180センチを超す長身、端正な顔立ち、英国流の洗練された身ごなし。
趣味は車と大工とゴルフ。
頭がキレて、語学堪能、度胸があり、誰にも媚びず、いつでも弱者に優しい。
まさにラストサムライでありながら、超スーパーエリート白州次郎。
白州次郎とは。
明治三十五年、1902年2月17日。
兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に生まれました。
中学でアメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルック(Glenbrook )を父親から買い与えられて乗り回しており、喧嘩は毎日で学校からの呼び出しが絶えなかったという。
大正十年、中学卒業後にイギリスに渡り、 大正十二年にはケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学。
やはりイギリスでも自動車に耽溺し、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットルを乗り回していた。
そこで生涯の友、ロバート C. ビンと出会います。
(左が次郎、右がロビン)
ロビン曰く、『いつも喧嘩の時には次郎が助けてくれた』とのこと。
イギリスの学校で日本人が番長みたいな感覚ですかね。
とりあえず次郎は誰にもびびらずに、喧嘩には常に向かって行ったとのこと。
そんな次郎を奥さんの正子は
「直情一徹の士(さむらい)」
「乱世に生き甲斐を感じるような野人」
と評しています。
「しょせん平和な世の中に通用する人間ではなかった」とも言われていたとのこと。
(正子夫人との2ショット)
その後父親の会社が倒産し、日本へ帰国。
1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。
伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚。
結婚祝いに父から贈られたイタリア車のランチア・ラムダで新婚旅行に出かけたり、とりあえず車好き。父親優しすぎ。
その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。凄すぎ。
この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得て、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。
第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。
この日々が白州次郎をカントリージェントルマンと呼ばせている。
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。
GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に
「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われことに激怒して、
「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」
と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。
元々白洲は戦争には反対でした。
知り合いの軍人に頼み込んで召集を免れていますし、反戦団体に加わって活動もしています。
ある飲み屋で「こんなバカな戦争を始めた奴の顔が見てみたい」という当時的には逮捕レベルの暴言を吐いたところ、とある軍人に聞かれてしまってその場で殴られたこともあったらしい。破天荒。
白州次郎は吉田茂と共にアメリカと会談し、アメリカ側が提示した悔しい内容ではあったものの、
『われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない』(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)
と強気な姿勢で一歩もアメリカに引かず、日本の為に尽力した。
吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。
東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員を任された。
いや凄いキャリアです。
現在日本を支えている企業の役員に選ばれすぎです。
こんな人、日本には未だかつていたでしょうか。
人間味に溢れ、正義に溢れて、愛に溢れ。。
日本人の鑑です。
白州次郎さんは名言がたくさんあり、その名言がかなり気に入ってます。
『人様から叱られた位で、引っ込むような心臓は持ち合わせがない。』とか、
「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない。」(東北電力会長時代にダム建設を請け負っていた前田建設工業社長・前田又兵衛へのアドバイス)とか、
「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」とか。
最近思うんですが、
かっこいいと面白い=反常識(勇気)だと。
そんなことを堂々と言える大人になりたいものです~